無題

息子への手紙

ようたの一時保護の件について

ようたへ。

 

あなたが万引きをして、児童相談所に一時保護になってから2週間が経ちました。

10月に離婚して母子家庭になってから、2人での生活では寂しさはこれっぽちも感じず、悩みながらも楽しい毎日でしたが、こんなに寂しい思いをする時が来るなんて、思ってもみなかったよ。

 

お母さんは、ようたがどういった大人になるのか楽しみで、

ギフティッドの本を読み進めていたけれど、

最近は道徳の本を読み進めることにしました。

 

今振り返ると、私はようたに共感してあげる心掛けを、怠っていたのかもしれないととても反省しています。

道徳心は、

はじめに共感が育ち、次に良心が育ち、自制、尊敬、親切、寛容、公平…が分かるようになる、というステップがあることを知りました。

 

私なりの育児に対しての一生懸命さは存在していたけれど、

ようたにとっての満足に至っていなかった様は

思い返してもありありと感じられていて、

母としての至らなさや、

同じような思いをして育ってきた自分自身の境遇と重ねて、

ただただ残念に思うばかりです。

 

ごめんね。

 

ようたをどのように育てて、

充足感のある毎日を共に歩んでいったらいいのか。

 

ようたを引き取った暁には、

人生を賭けて、悩みながら、手探りででも、

真摯に向き合っていきたいと、

本当に思っています。

 

母として向き合っている姿勢を我が子に感じてもらうって、

本当に大変なことだね。

 

私のお母さんも、そうやって苦しみながら生きていたのかな。

 

 

今はこの胸から離れてしまったようたに思いを馳せながら、

こうやって内省を重ねている状態なのだけれど、

 

私の元に戻ってきたようたに、

どのように接し続けていったらいいのか。

 

戻ってくることをとても楽しみにしている反面、

本当に私自身に母親としての資格や能力があるのか、

それを周囲にどのように認めてもらいながら、

育てることを許してもらえるのか。

 

少し不安です。

 

子育てをさせて頂く、責任を果たす義務を背負わせて頂く、

ということって、

本当に、大変。

 

 

ようたが生まれてすぐに、乳児院に一時保護になった時は、

1日でも、1分1秒でも早く会いたい、引き取りたいと

もがいて荒んでいたけれど、

 

あの頃は、あの必死さが私の心の平穏とはかけ離れていて。

荒んだ気持ちに反比例するように、ようたは3ヶ月戻ってきませんでした。

 

今はどうやって心の平常と冷静と安定が私にあって、

安心して家庭で育児できる状況なのかを

説明的に過ごしていくことに専念することが、

 

私にとって最大限できることなのかなと、

ただただ祈りながら、

時間が解決してくれることを待つばかりです。

 

何もできないもどかしさにヤキモキしてしまう気持ちに蓋をしながら、

こうして手紙を書いています。

 

こんな言い訳ばかりではなく、

あなたが今何を思って、

何を反省して、

どうやって過ごして、

何にを楽しみに生きているのか。

 

すごく心配で、

思いを馳せるたびに、

とても胸が張り裂けそうになること、

 

私にとってのようたへの愛情を、

これからどのように伝えていってあげたらいいのか、

すごくすごく、考えていること。

 

とにかく、ようたが大好きなんだよ、ということを、

知ってもらいたい、

伝えたい。

 

大事に思っているんだよ。

本当に、あなたは私の宝物なんだよ。

 

早く、一緒にまた暮らせますように。

 

 

人生の中で問題はいつでも尽きないのだけれど、

どうか思い悩み苦しむときは、

私に打ち明けてほしい。

一緒に考えて、解決できる方法を見つけたい。

寄り添う姿勢を、私は全力で取るからね。

 

そういったことも、親子間での信頼あってこそなのだと思う。

ようたから私は十分に信頼されていなかったのではと反省するけれど、

これからはできることをもっと向き合って、考えていきたいと思っているよ。

 

一生懸命で一杯一杯、ではなく

日常に余白を作って、

あなたと向き合える時間をたくさん作って、

あなたを応援し続けたいと思っているよ。

 

ようたくん、

今、あなたはどんなことを思い生活しているのかな。

私以上に、あなたが平穏であること、

幸せを実感できて充足した生活を送ることができることを

私は願っています。

 

十分、頑張ってきたんだよね。

リラックスやガス抜きができる環境を作れるように、

私も準備して、

あなたを迎え入れる準備をして

待っています。

 

今日も明日も明後日も。

ようたくんは賢くて、頑張り屋さんで、可愛い私の一人息子だよ。

大好きだよ。

ようたの一時保護の件について

ようたへ。

 

あなたが万引きをして、児童相談所に一時保護になってから2週間が経ちました。

10月に離婚して母子家庭になってから、2人での生活では寂しさはこれっぽちも感じず、悩みながらも楽しい毎日でしたが、こんなに寂しい思いをする時が来るなんて、思ってもみなかったよ。

 

お母さんは、ようたがどういった大人になるのか楽しみで、

ギフティッドの本を読み進めていたけれど、

最近は道徳の本を読み進めることにしました。

 

今振り返ると、私はようたに共感してあげる心掛けを、怠っていたのかもしれないととても反省しています。

道徳心は、

はじめに共感が育ち、次に良心が育ち、自制、尊敬、親切、寛容、公平…が分かるようになる、というステップがあることを知りました。

 

私なりの育児に対しての一生懸命さは存在していたけれど、

ようたにとっての満足に至っていなかった様は

思い返してもありありと感じられていて、

母としての至らなさや、

同じような思いをして育ってきた自分自身の境遇と重ねて、

ただただ残念に思うばかりです。

 

ごめんね。

 

ようたをどのように育てて、

充足感のある毎日を共に歩んでいったらいいのか。

 

ようたを引き取った暁には、

人生を賭けて、悩みながら、手探りででも、

真摯に向き合っていきたいと、

本当に思っています。

 

母として向き合っている姿勢を我が子に感じてもらうって、

本当に大変なことだね。

 

私のお母さんも、そうやって苦しみながら生きていたのかな。

 

 

今はこの胸から離れてしまったようたに思いを馳せながら、

こうやって内省を重ねている状態なのだけれど、

 

私の元に戻ってきたようたに、

どのように接し続けていったらいいのか。

 

戻ってくることをとても楽しみにしている反面、

本当に私自身に母親としての資格や能力があるのか、

それを周囲にどのように認めてもらいながら、

育てることを許してもらえるのか。

 

少し不安です。

 

子育てをさせて頂く、責任を果たす義務を背負わせて頂く、

ということって、

本当に、大変。

 

 

ようたが生まれてすぐに、乳児院に一時保護になった時は、

1日でも、1分1秒でも早く会いたい、引き取りたいと

もがいて荒んでいたけれど、

 

あの頃は、あの必死さが私の心の平穏とはかけ離れていて。

荒んだ気持ちに反比例するように、ようたは3ヶ月戻ってきませんでした。

 

今はどうやって心の平常と冷静と安定が私にあって、

安心して家庭で育児できる状況なのかを

説明的に過ごしていくことに専念することが、

 

私にとって最大限できることなのかなと、

ただただ祈りながら、

時間が解決してくれることを待つばかりです。

 

何もできないもどかしさにヤキモキしてしまう気持ちに蓋をしながら、

こうして手紙を書いています。

 

こんな言い訳ばかりではなく、

あなたが今何を思って、

何を反省して、

どうやって過ごして、

何にを楽しみに生きているのか。

 

すごく心配で、

思いを馳せるたびに、

とても胸が張り裂けそうになること、

 

私にとってのようたへの愛情を、

これからどのように伝えていってあげたらいいのか、

すごくすごく、考えていること。

 

とにかく、ようたが大好きなんだよ、ということを、

知ってもらいたい、

伝えたい。

 

大事に思っているんだよ。

本当に、あなたは私の宝物なんだよ。

 

早く、一緒にまた暮らせますように。

 

 

人生の中で問題はいつでも尽きないのだけれど、

どうか思い悩み苦しむときは、

私に打ち明けてほしい。

一緒に考えて、解決できる方法を見つけたい。

寄り添う姿勢を、私は全力で取るからね。

 

そういったことも、親子間での信頼あってこそなのだと思う。

ようたから私は十分に信頼されていなかったのではと反省するけれど、

これからはできることをもっと向き合って、考えていきたいと思っているよ。

 

一生懸命で一杯一杯、ではなく

日常に余白を作って、

あなたと向き合える時間をたくさん作って、

あなたを応援し続けたいと思っているよ。

 

ようたくん、

今、あなたはどんなことを思い生活しているのかな。

私以上に、あなたが平穏であること、

幸せを実感できて充足した生活を送ることができることを

私は願っています。

 

十分、頑張ってきたんだよね。

リラックスやガス抜きができる環境を作れるように、

私も準備して、

あなたを迎え入れる準備をして

待っています。

 

今日も明日も明後日も。

ようたくんは賢くて、頑張り屋さんで、可愛い私の一人息子だよ。

大好きだよ。

母に心を破壊された私が、母になった。

2011年4月。

東日本大震災で混沌とした状況で私は東北から東京に身一つで就職した。

仙台の実家は被災。

金銭的にもメンタル的にも誰にも頼れず、不安の中上京。

貯金はゼロ。

食べていけないので、給料が出るまでは、隙間時間に寝る間を惜しんで風俗で稼いでは、生活の足しにして食いつないだ。

初任給は21万円と聞いていたのに、入社直前に「仮配属」という待遇を知り、5月にようやく振り込まれた初任給は11万円だった。

 

社会人一年目、涙が止まらなくなった。

仕事が出来ないほどに。

とてつもなく死にたくなった。

もう心も体も疲弊しきっていた。

自分の存在価値がわからなくなった。

心底、病んでいた。

 

その頃には複数の男に溺れ、

母よりも年上の男性とも何人か付き合った。

今思うと、「母から愛してほしかった」愛情の欠乏を、男性に求めていたのかもしれない。

私はあの頃、「保護者」が欲しかったのだと思う。 

 

休職と復職を繰り返し、4年目に会社を辞めた。

 

そこから職を転々とした。

アルコールに溺れ、たばこも覚えた。

夜、とにかく眠れない。

一人の夜が淋しくて、色んな男の人を家に呼んだし、その場限りでも「私を求めてくれる存在」がいないと怖かった。

ただ体を「消費」されているだけだとしても、それでよかった。

もう、私の存在価値なんてゼロに等しいから。

ろくに働かず、飲み歩いてばかりで生活なんて成り立っていなかった。

借金も重ねながら。

 

とうとう家賃が払えなくなった時。

保証人の両親に不動産屋から連絡が行ってしまった。

意に反して、滞納分の家賃は親が支払ってくれた。

 

その時、母は私を助けなかった。

弁護士に引き合わせ、私に自己破産を迫った。

「このままでは闘病しながらの奨学金やカードローンの支払いは不可」

「早いうちに破産しておいた方が、将来的に信用情報が回復するのが早くなる」

そんな話をされたような気がする。

「破産して実家に帰ってきたら?」

母の提案が、愛情にも優しさにも感じられなかった。

 

「こんな思いをさせてごめんね」

なんて泣いてくれるわけもなく。

親が払わなかった学費の奨学金も、全て私の責任。

親は、どこまでも私を突き放した、そんな悲しさしか感じなかった。

 

 

 

私は東京に帰ってきた。

飲み屋で飲み歩き、カウンターの客と平気で下衆な話ばかり。

だいぶ落ちぶれた私に「あゆみちゃん、そんな話しちゃダメだよ。」とその場で優しく叱ってくれた人が、今の夫。

夫とは付き合って3か月目でデキ婚した。

 

 

夫ともかなり衝突した。

蓋を開けてみれば、借金体質で私の財布からもお金を盗む人だった。

ブラックな職場に努める料理人で、私に寄り添う時間もなし。

散々だった。

 

そして、結婚5年で気づいた彼の発達障害アスペルガー症候群)。

夫婦そろって発達障害双極性障害というダブルパンチ。

そのせいで、私はずっと発達障害の夫に悩まされ鬱や体調不良に陥る、いわゆる「カサンドラ症候群」の状態だった。

複雑な私の心を読んでくれるほど器用ではなく。

産前産後のホルモンバランスが乱れ狂った私に対応できず、周囲に相談もできず。

結局彼は私に向き合うこともなく、ひたすら仕事に逃げ、肝心な話はフリーズ。

 

最悪なことに、産後すぐ息子を乳児院に連れていかれてしまう結果となった。

3か月以上家に帰ってこなかった。

生まれたばかりの息子を自分ので育てられなかったことは、絶対に一生後悔し続けると思う。

 

 

これだけ自暴自棄で、生きる価値がゼロの私が。

子供を授かって産んでしまった。

でも産後すぐはやっぱり社会的に育てさせてもらえなかった。

 

本能的に、赤ちゃんが可愛い。

本気で取り戻したい。

そう思って弁護士に相談し審査請求までして、息子を取り戻した。

 

この小さな赤ちゃんひとりを育てるのに、

住まい(公営住宅)、お金(年金)、育児協力(ヘルパー)、保育園(託児)・・・と、本当に多岐にわたって沢山申請や手続きをして。

こんなにも苦労しないと、育てる資格すらない私。。。

 

のうのうと生んで育てるよそのママに苛立ちを覚えつつも。

こんなにも親との確執で悩んできた人生。

わが子には絶対苦労させたくない、と思い始め・・・。

 

 

やっぱり、私自身が悩んできた「愛情」の在り方について凄く凄く深く考えることが増えた。

向き合わざるを得なくなった。

なので、沢山本も読んだ。

 

 

そこで知った原則がある。

それは、「健全な心は、幼い時の満足の上で育つ。」ということ。

愛情や欲求がすべて満ち足りたとき、子供は親の元を自ら立つのだな、ということ。

親は子供の素直な欲求、素直な甘えを満たしてあげる事。

それができて初めて「心が育つ」のだということを知る。

 

では、子供の満足を満たしてあげるには・・・?

「親が満たされていること」

も重要であって、親の自己犠牲の上では子供の幸せは成り立たない。

これは、すごく重要なのに忘れがちなこと。

 

 

息子を満たしてあげる事に全力になろうと誓った。

母は反面教師だ。

 

そして、私も満たされたいと思った。

私の欲求ってなんだろう。

・・・

そこで、やはり母からの愛情が欲しいと思ってしまう。

 

ほらね。

 

堂々巡りなの。

 

 

 

ねぇお母さん。

誰かが決意して愛してあげないと。

お母さんが私を愛してくれたら、息子も愛されるの。

わかる?

 

 

ねぇ、お母さん。

なんで私を避けるの?

お願い、もっと話を聞いてほしい。

なんでいつも途中で電話を切るの?

電話に出てくれないの?

 

 

 

そうやって心の中で、お母さんに声をかけて。

返事がなくて泣く。

その、繰り返し。

 

もしお母さんが居なくなったら、、、

私は自立できるんだろうか?

私は母親を憎んでいる。

私は母とうまくいっていない。

なぜなら、きちんと愛してくれなかったから。

 

正確には母なりに愛してくれていたのだろう。

あれが母なりの精一杯だったのかもしれない。

でも私はそれで満足できなかった。

 



2歳半下の弟は秀才だった。

そして母に優しかった。

いつでも比較して見られている感覚があった。

 

父が独立した会社の専務として、母も働いた。

私と弟はよく留守番をしていた。

淋しかった。このころから私は肥満児になった。

 

私が小学5年生の時、母がうつ病になった。

ヒステリックな母に罵声を浴びせられたり、よく殴られた。

帰宅すると、玄関横の和室で母がぐったり寝込んでいる。

その部屋の前を通るのがとても怖くて、音がしないようにゆっくり玄関ドアを開閉し、サッと二階の自分の部屋に閉じこもった。

 

受験直前の中学3年生の冬、唯一まともな父がてんかん発作で倒れた。

続く高熱で高次脳機能障害も併発。

父は記憶も喪失し、人格もおかしくなってしまった。

母は父の経営する会社の仕事と、私の受験と、父の介護とで10㎏以上痩せた。

私は必死に第一志望の高校に合格した。

父の治療費が高額なのをしっていたから。

家計が大変なのを心配したし、不安も耐えた。

 

思春期真っ只中の私。

父が便失禁したパンツを洗ったトラウマ。

退院後の父の人格が豹変し、暴力を振るわれた時のショック。

受験が終わり、高校入学直後の環境変化の大きな時期に、大好きだった父の不安定な感情に振り回され、会社で手一杯な母に頼れず。

 

この上ない戸惑いと淋しさがあったと思う。

私は、愛情が満足できていないことを、何度も何度も母に訴えていた。

 

「私をもっと愛してほしい」

 

高校生の頃は反抗として。沢山怒りの感情をぶつけた。

ダイレクトに、ある意味ストレートに、まっすぐ母と喧嘩した。

「こっちを見て!」

というメッセージを母親に投げかけるのに必死だった。

感情をぶつける体力もあった。

母も本気で怒っていた。

ある時は顔を殴られ、高校を欠席した。

ある時はみぞおちを蹴られて、失禁したこともある。

 

「もうこんな家出ていく!」

と啖呵を切ると、母は

「出ていけ!」

と言った。

ショックだったけど、踏ん切りがついた。

第一志望の大学は不合格。

県外の私立大学に進学し一人暮らしをすることになった。

 

大学生の頃は、音信不通を貫き、徹底的に無視をした。

心配して欲しかった。

そうやって愛情を確かめたかった。

 

母は、自信がない人だった。

いつだって、肝心なところで私を拒絶する。

最後まで責任をもって愛する「親の責任」を、いつだって全うしない。

 

 

大学卒業~社会人になるにつれて、水商売や風俗など、自分を傷つけるような場所に私はあえて身を置いた。

たくさん泣いた。辛かった。苦しかった。

「私はこんなに傷ついている」と実感するたびに、親に対して「ざまあみろ」と思った。

「あなたが育てた娘が、こんな姿に成り下がっている。どうぞ悲しんでください。」

と思っていた。

悲しみという感情でもいいから、どうか私だけに関心を寄せて欲しかった。 

 

ある日、私はバイク事故にあった。

右顎関節骨折、前歯二本欠損、顔を13針縫う大怪我だった。

音信不通だった母が病院に駆けつけ、朦朧とした私の枕元で「このバカ娘」と言った。

入院中、荷物の中から風俗勤務の書類が見つかってしまった時は、この期に及んで叱られた。

 

私は、そんな目で見てほしくなかった。

悲しんで欲しかった。

こんなところから救い出してくれるほどの愛と、寄り添いを求めていた。

でも、母は私に対して叱るばかりだった。

寄り添いではなく、指図ばかりだった。

 

段々と、私の感情は崩壊していった。

幸せそうに見えるけれど。

深夜2時。

同い年の夫と、4歳の息子は寝室でぐっすりと寝ている。

 

ダイニングで一人、パソコンを広げてこのブログを書き始めている。

私はあゆみ。

今年で32歳になる。

 

一見ごく普通の主婦だけど、今夜寝れないのも、現在患っている双極性障害という精神疾患のせいだ。

2011年頃にうつ状態になって体調を崩してから、かれこれ10年もの間、精神科にお世話になっている。

 

私の口癖は「死にたい」だ。

10代の頃から変わっていない。

 

一見、快活で明るい性格に見えるため、自己肯定感も高く、自信もあり、友達も多いし、私の生活を傍から見れば、何不自由ない人生に見えることだろう。

今でこそ息子もある程度大きくなり、少し落ち着いて生活できているようなものだが、実は、私は人生の半分以上の時間を、ずっとずっと様々なことに悩み続けてきた。

 

お金がないこと、

時間がないこと、

健康でないこと。

・・・

どれも生きていく上で必要なことだけれど、こんなにも恵まれた日本に住んでいれば誰かが補ってくれるし助けてくれる。

 

けれども、それ以上に。

私には、ずっとずっと悩み続けてきて、いつでも最終的に思い出し涙することがある。

 

それは、私の実の「母親」についてだ。

 

いつだってそう。

思春期に担任の先生に相談したのも

大学時代にのめり込んだ恋愛相手に相談したのも

新卒で入社した会社の上司に相談したのも

精神を病みカウンセリングでずっと相談していたのも

 

全部全部私の母親についてだ。



私は母親を憎んでいる。

なぜなら、私をちゃんと愛してくれないからだ。