無題

息子への手紙

私は母親を憎んでいる。

私は母とうまくいっていない。

なぜなら、きちんと愛してくれなかったから。

 

正確には母なりに愛してくれていたのだろう。

あれが母なりの精一杯だったのかもしれない。

でも私はそれで満足できなかった。

 



2歳半下の弟は秀才だった。

そして母に優しかった。

いつでも比較して見られている感覚があった。

 

父が独立した会社の専務として、母も働いた。

私と弟はよく留守番をしていた。

淋しかった。このころから私は肥満児になった。

 

私が小学5年生の時、母がうつ病になった。

ヒステリックな母に罵声を浴びせられたり、よく殴られた。

帰宅すると、玄関横の和室で母がぐったり寝込んでいる。

その部屋の前を通るのがとても怖くて、音がしないようにゆっくり玄関ドアを開閉し、サッと二階の自分の部屋に閉じこもった。

 

受験直前の中学3年生の冬、唯一まともな父がてんかん発作で倒れた。

続く高熱で高次脳機能障害も併発。

父は記憶も喪失し、人格もおかしくなってしまった。

母は父の経営する会社の仕事と、私の受験と、父の介護とで10㎏以上痩せた。

私は必死に第一志望の高校に合格した。

父の治療費が高額なのをしっていたから。

家計が大変なのを心配したし、不安も耐えた。

 

思春期真っ只中の私。

父が便失禁したパンツを洗ったトラウマ。

退院後の父の人格が豹変し、暴力を振るわれた時のショック。

受験が終わり、高校入学直後の環境変化の大きな時期に、大好きだった父の不安定な感情に振り回され、会社で手一杯な母に頼れず。

 

この上ない戸惑いと淋しさがあったと思う。

私は、愛情が満足できていないことを、何度も何度も母に訴えていた。

 

「私をもっと愛してほしい」

 

高校生の頃は反抗として。沢山怒りの感情をぶつけた。

ダイレクトに、ある意味ストレートに、まっすぐ母と喧嘩した。

「こっちを見て!」

というメッセージを母親に投げかけるのに必死だった。

感情をぶつける体力もあった。

母も本気で怒っていた。

ある時は顔を殴られ、高校を欠席した。

ある時はみぞおちを蹴られて、失禁したこともある。

 

「もうこんな家出ていく!」

と啖呵を切ると、母は

「出ていけ!」

と言った。

ショックだったけど、踏ん切りがついた。

第一志望の大学は不合格。

県外の私立大学に進学し一人暮らしをすることになった。

 

大学生の頃は、音信不通を貫き、徹底的に無視をした。

心配して欲しかった。

そうやって愛情を確かめたかった。

 

母は、自信がない人だった。

いつだって、肝心なところで私を拒絶する。

最後まで責任をもって愛する「親の責任」を、いつだって全うしない。

 

 

大学卒業~社会人になるにつれて、水商売や風俗など、自分を傷つけるような場所に私はあえて身を置いた。

たくさん泣いた。辛かった。苦しかった。

「私はこんなに傷ついている」と実感するたびに、親に対して「ざまあみろ」と思った。

「あなたが育てた娘が、こんな姿に成り下がっている。どうぞ悲しんでください。」

と思っていた。

悲しみという感情でもいいから、どうか私だけに関心を寄せて欲しかった。 

 

ある日、私はバイク事故にあった。

右顎関節骨折、前歯二本欠損、顔を13針縫う大怪我だった。

音信不通だった母が病院に駆けつけ、朦朧とした私の枕元で「このバカ娘」と言った。

入院中、荷物の中から風俗勤務の書類が見つかってしまった時は、この期に及んで叱られた。

 

私は、そんな目で見てほしくなかった。

悲しんで欲しかった。

こんなところから救い出してくれるほどの愛と、寄り添いを求めていた。

でも、母は私に対して叱るばかりだった。

寄り添いではなく、指図ばかりだった。

 

段々と、私の感情は崩壊していった。